珈琲の香りを感じる。
なんとなく流れる時間。時計の針は反対回りには回ってくれない。
だから、いつもと同じ毎日だけれど、同じ毎日がいつもと同じ特別な時間。
この地で生きているということ。
わたしがいまの時間を選んでいる。
丁寧にこの時間の選んでいくことが、わたしたちの暮らしを豊かに彩っている。
たくさんのモノゴトであふれる今。
私たちの価値観も少しずつ形を変えていく。
こころとからだは、ほっとしたいときもある。
大切にしたいものは、気が付くと自分のはしっこにしまい込んでしまっているかもしれない。
それでも、“豊かさ”というものは今も昔も同じ。きっとそうだ。
「この地で生きているということ。」
それは、人のつながり。
それは、当たり前の健康。
それは、自分の選択。
それは、昨日とは違う自分。
それは、居心地のよい空間と時間。
このまちの“拠り所”でありたいと願っています。
あるといいながあるところ。それが、「ヨリドコ小野路宿」
※ヨリドコ誕生の経緯について、noteに書きました。
医療者が「壁」を越えること。
世界中の誰も経験したことがない超高齢社会、多死社会を迎えます。
まちだ丘の上病院(まちおか)は、医療機関として多くの生と死に向き合ってきました。そして、その中で、”私たちは本当に地域の人々にとって必要な医療を届けることが出来ているのだろうか”という問題意識を持ち続けてきました。
近年、在宅での看取りが急激に減少していることは、人々が「死」を受け入れがたいものにし、忌み嫌い、遠ざけてしまった結果ではないかと思うのです。
現代人の多くは病院で人生の最期を迎えます。決して、病院での看取りを否定するわけではありませんが、みんな本当に自分の生き方や死に方に選択肢を持てているのでしょうか。
病院は「死」のイメージが付きまとい、みなさんから好かれる場所ではありません。「病院っぽさ」があるから、人々が「医療」から遠ざかるのではないか。「医療」から遠ざかるから、「命」のこととか、「死」のことに正面から向き合う機会を失っているのではないか。そんな風に私たちは感じています。
そして、「病院っぽさ」を作り出しているのは、他ならぬ医療者自身でもあります。「医療は高度な専門性が求められる」とか、「人の命を扱っている」とか、医療者のプライドがありすぎることが、目には見えない透明なバリアを作っていたのかもしれません。
だから、まちおかは、「自分たちが地域の人たちの近くに行く」ことにして、野津田の丘を下りることに決めました。
それが「ヨリドコ小野路宿」プロジェクトです。
日本が超高齢社会を迎える中で、既存の社会インフラや社会保障の仕組みだけでは、増えゆく高齢者を支えることができません。
人々の価値観や生活様式も多様化し、これまでの箱モノ偏重型の高齢者の住まいのあり方にも限界があります。
「ヨリドコ小野路宿」は、地域での人びとのくらし方や生き方を提案する事業だと私たちは捉えています。
小野路町の中心地、宿通りの町並みは宿場町の風情を残し、緑豊かな自然をたたえています。この何百年も続く日常の中に、自然と”医療”や”健康”が溶け込んでいく、そんな場所を目指していくこと。
「あるといいながあるところ。」
「なければならないもの」は、世の中にそれなりにあふれている。でも、「あって欲しいもの」は、欲しがり始めると際限がありません。それに、何かを求め続けることが、人々の生活を豊かにするということでもない。
だから、「あるといいながあるところ。」くらいがちょうどいいのではないか、と考えました。
ヨリドコ小野路宿では、この地域にたくさんの「あるといいな」を創り出した結果として、実現したい状態を“標ーしるべー”として、明確にしています。
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人と『つながる場』
困った時に相談できる人がいる、やりたいことを応援してくれる人がいるところ
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力を『生かす仕組み』
自分のやりたいことができる、誰もが役割を持つことができるところ
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学びを『育む環境』
誰もが学びたい時に学ぶことができる、そこに、教わることができる人がいるところ
ヨリドコ小野路宿では、「あたたかいこと」「ともに歩むこと」そして「確かであること」を3つの芯ーしんーとします。
また、利用するもの、学びたいもの、そして、働くものなど、すべての関わる人々が大切にする基-もといーを作成しています。
- あたたかく見守るトコロ
- ほどほどでいられるトコロ
- 素直でいられるトコロ
- 誰もが輝けるトコロ
- もう少し頑張ってみれるトコロ
- 互いを認め合えるトコロ
- 決まり事を大切にするトコロ